ウクライナから緊急帰国の降簱英捷さん支援

3月19日ウクライナ・ジトーミルから避難した降簱英捷さんとその家族への
ご支援ありがとうございました


#降簱英捷さん(左から2番目)とご家族の皆さん(2022年3月31日稚内にて)

2022年3月9日版


【緊急募金のお願い】

樺太残留日本人のウクライナ脱出をご支援ください!

樺太残留日本人の「降簱英捷(ふりはたひでかつ)」さん(78)が、今、キエフ近郊ジトーミルから戦火を逃れてワルシャワに向かって脱出しようとしています。
樺太残留後、日本国籍を失った降簱さんは1954年に父母がソ連国籍を取得。その結果、子どもたちもソ連国籍になりました。1971年、仕事のために家族とともにウクライナに移住しましたが、ソ連崩壊後のウクライナ独立により、現在の国籍はウクライナとなっています。つまり英捷さんは「ウクライナ人」として日本への渡航申請しなくてはなりません。
しかし体調の問題などから2011年を最後に一時帰国をしてなかった英捷さんの国外パスポートの有効期限は切れていたのです。日本への渡航に必要なビザを申請するにはウクライナパスポートを更新する必要がありましたが、それは非常に困難な状況でした。
そこで日本サハリン協会では、英捷さんが樺太残留邦人であり、日本に戸籍も存在することを在ポーランド日本国大使館に伝え、査証発給に対する特段の配慮をお願いしておりました。その結果、当初求められていたワルシャワのウクライナ大使館でのパスポート更新手続きが事実上不可能となったことなどから、昨日3月8日、外務省ならびに日本大使館より、パスポートに代わる「渡航証明書」の発給が決定したとの連絡が入りました。
この措置により英捷さんはワルシャワに到着し、日本大使館に行くことが出来さえすれば、日本への渡航が可能になったというわけです。

8日の現地からの連絡によれば、5日にジトーミルを発った英捷さんはようやく国境付近までは到着したものの、多くのウクライナ人が国境を越えようと押し寄せているため前に進めない状況で、いつ国境を越えられるかわからないとのことでした。
高齢で心臓病の彼を支えるために、孫娘(17歳)、孫の妻(27歳)とその娘(2歳)の3人も共に行動しています。
ワルシャワまでは孫の妻INNAさんの父親が車で送ってくれています。しかし彼は、4人を無事に送り届けたあと、再び戦火のウクライナに戻ります。孫息子は祖国を守るため、妻子と別れてジトーミルで闘っています。
INNAさんの父親の勇気あるサポートのあとは、英捷さんの祖国である日本の私たちが支援を引き継がなければ、と考え、NPO法人日本サハリン協会ではとりあえず緊急の募金活動を開始しました。
募金の呼びかけ開始直後から多くの方の支援が届いています。ご協力ありがとうございます。引き続きよろしくお願いいたします。

【募金受付】

ゆうちょ銀行 振込口座 
【口座記号」00160-5 【口座番号】387409 「NPO法人日本サハリン協会」

または

三菱UFJ銀行 
代々木上原支店 普通 0078882 「特定非営利活動法人日本サハリン協会」

北海道に永住帰国している英捷さんの4人の兄妹は、英捷さんの身を案じて、連日、眠れぬ夜を過ごしています。
皆さまのご協力、よろしくお願いいたします。


2022年3月22日版


降簱英捷さん、無事、到着。

引き続きのご支援をお願いします

 ご支援ありがとうございました
降簱英捷さん、3月19日に無事、成田空港到着しました。
支援を呼び掛けて以来、多くの方々からの募金、
あるいは有形無形のご支援のおかげで、
降簱さん一家救出が実現しました。
心より感謝いたします。

なお募金につきましては、これまでウクライナから脱出するための渡航と親族のもとにたどり着くための費用として皆様に支援を呼びかけておりました。このため当初の計画では、協会は旭川の親族宅に到着した段階で募金を終了する予定でおりました。しかし、いざ日本に到着してみると、住むところも生活についても見通しが全く立たない状態であることがわかりました。現在(3月22日時点)で受けている公的支援は、英捷さんと介護人1名の一時帰国費用(渡航費・2週間分の滞在費)のみとなっています。すでに政府も関係自治体も、ウクライナ避難民に対しての支援については表明しており、検討を始めていますので、近いうちに公的支援が届くことを期待しております。しかしそれまでの当座の生活費の支援は必要と判断しました。皆様には、彼らの日本への避難を確実なものにするために、引き続き募金へのご協力をお願いいたします。

*3月18日現在、168名の方からの募金が寄せられています。金額、使途等、最終的なご報告は募金終了時にHPにて公表する予定です。

 現地時間3月18日にポーランド航空機でワルシャワを離れた降簱さんとその家族は、日本時間3月19日13時過ぎに成田空港に到着。PCR検査を受け、入国手続きを終えた家族4人が到着ゲートに姿を見せたのはなんと4時間後の17時でした。心臓病を患っている英捷さんの健康状態や2歳のひ孫ソフィアちゃんの体調が心配されましたが、3月5日にジトーミルの自宅を離れてから14日間にわたる長旅にもかかわらず、4人とも笑顔で出迎えの方々の前に現れました。
 兄 信捷さん(80歳 稚内在住)、妹 レイ子さん(70歳 旭川在住)とは11年ぶりの再会でしたが、この再会が、これまでの一時帰国以上の特別な意味を持っていたのはいうまでもありません。3人は涙とともにその奇跡の再会を喜び、その姿を見ていた私たちの胸もいっぱいになりました。その後、英捷さんは兄妹とともに成田空港に待ち構えていた報道関係者の取材に丁寧に対応してくださり、羽田のホテルへと移動。帰国第一夜を静かに過ごされました。英捷さんとともに到着した孫のヴラジスラワさん(18歳)と孫の妻インナさん(27歳)、そしてひ孫のソフィアちゃん(2歳)にとっては初めての日本。その晩は、レイ子さんとともに入ったホテルの大浴場に大満足でした。
 翌20日は羽田から旭川に移動。旭川空港では札幌から駆け付けた婦美子さん(72歳)、晴美さん(68歳)とも再会。兄妹5人がそろって、報道各社の取材に応じ、出迎えた親せきとともに記念写真に納まりました。その後、旭川市が用意してくださった小型バスでレイ子さん宅に移動。27日までの7日間、コロナウィルス感染拡大予防のための自宅待機に入っています。

 協会では、これまでの経緯を、成田空港到着前日にまとめ、希望する報道各社に提供しました。その内容を簡単に時系列にしたものをHPに掲載いたします。4人にはここに書ききれない多くの困難があったことと思います。特に18歳のヴラジスラワさん(3月16日ワルシャワで誕生日を迎えました!)とともに、幼児のソフィアちゃんを抱えながら、高齢の英捷さんを無事に日本に送り届けてくれたインナさんは、日本との連絡も必要な手続きもすべてになってくださり、どんなに大変だったことでしょうか。協会でも待機期間が終了し、直接お話を聞くことができるようになりましたら、あらためて皆さんにお会いしたいと思っています。


【ウクライナ脱出・救出経緯 2022年2月24日~3月18日  日本サハリン協会作成】

2月24日 ロシアによるウクライナ侵攻開始
  25日 協会会長の斎藤が、妹レイ子さんから4日前から英捷さんに電話が通じず心配との訴えを受け、現地の状況について確認を始める。
  28日 レイ子さんから電話が通じたとの連絡が入る。英捷さんは自宅のあるジトーミルも爆撃を受けるようになり、独り暮らしで不安だったため、ダーチャ(郊外の菜園)に避難していた。そこにはWi-Fiがないため、電話が通じなかったが、たまたま自宅に戻ったときにレイ子さんからの電話が通じたという。この話を聞き、協会は英捷さん救出に向けて動き出すことを決定。

3月 4日 英捷さんと同じジトーミルに住む孫のデニスさんが、日本政府の避難民受入れ表明のニュースを聞き、支援を求めるためリビウの日本大使館に行くが、ロシア語のできる職員がいなかったため、そのままジトーミルに戻った。このことを妹の婦美子さん経由で聞いた斎藤はデニスさんにジェシュフに開設された現地事務所の連絡先を伝える。早速、デニスさんが連絡事務所に電話したところ、「難民の受け入れはまだ行っていない。自力で脱出し、日本へ行く旅費も自費でまかなう必要がある」といわれ、旅費を工面できないという理由で祖父の脱出を諦めたと、デニスさんから婦美子さんに連絡が入った。   
     一方、協会では、ジェシュフの現地事務所にメールを入れ、脱出方法を相談。事務所担当官からは無料バスでポーランド国境を越え、大使館のあるワルシャワに直接移動し、ビザの発給を求めるようアドバイスされる。渡航費用を心配して脱出をあきらめたという英捷さんに対し、募金を集め渡航費用に充てることを決定。しかしデニスさんからは、心臓の悪い祖父が1人で動くことは無理であること、バスや電車が出ているとはいっても避難民が増えていて、なかなか乗れないとも聞く。もうしばらくこのまま様子を見ると、いう答えが返ってきた。日本の兄妹は連日、テレビに映し出されるウクライナ情勢を見ながら、心配で、夜も眠れない日々が続く。
     こうした中、協会から在ポーランド日本国大使館に対し、支援を求めるメールを送り、日本時間、5日未明、斎藤に返信の電話とメールが入る。大使館からは、ウクライナ国籍の「残留邦人」という複雑なケースのためにどのような方法があるかを検討しているとの返事。
  5日 爆撃がジトーミルにも迫ってきた。近くの燃料備蓄基地に爆弾が落ちたら大変なことになる。不安が募るなか、インナさんの父が車でワルシャワまで送ってくれることになり、6日の朝にジトーミルを脱出すると決意。ところが近くのアパートにも爆弾が落ちて身の危険を強く感じたため、翌朝まで待てず、5日午後3時に出発。英捷さんに付き添って、インナさんがひ孫のソフィアちゃんとともに避難、さらにリヴィウの大学に通っている孫のヴラジスラワさんがリヴィウで合流することになった。
     東京では連日、在ポーランド日本国大使館とのやりとりが続く。このやり取りの中で、英捷さんとヴラジスラワさんのパスポートの有効期間が切れていることが発覚。ワルシャワに着き次第、ウクライナ大使館でパスポートの更新をしなくてはビザが出ないとわかり、それが何日かかるかわからないといわれ、また不安に。しかし大使館からは身分さえ証明できればポーランドには入国できるので、ともかく来るようにといわれる。メールの最後に書かれた「降旗様が日本に渡航できないというような状況は起こらないと思いますので、ご安心下さいませ。」という一文に期待を寄せる。
     リビウでヴラジスラワさんが合流する。英捷さんは心臓の薬が切れると危険な状態になるという。日本の親族がこのことを心配し確認したところ、4月まではあるということで一安心する。
  6日 国境の手前まで来たところで車が故障し、修理するまで先へ進めなくなる。食料と水がなくなり、とりあえず水を手に入れるため、車を降りて探しに行った。こうした情報に日本の兄妹は心配心配を募らせていた。避難の途中で、英捷さんの携帯が壊れてしまう。さらに移動中は日本からの電波が届かないため、現地の情報はインナさんが夫のデニスさんに伝え、デニスさんが婦美子さんに伝え、婦美子さんが斎藤に伝えるという伝言ゲームのようになっていた。そのため東京の斎藤には現地の状況がよく伝わらずもどかしさが募る。
     こうした中、大使館にはパスポートがなくてもビザを出してくれるよう訴え、英捷さんのの戸籍や兄妹が書いた嘆願書などを送付。同時に協会HPやFB「日本サハリン未来プロジェクト」、あるいはTwitterなどで募金の呼びかけを始める。すぐにFBだけでも7000人のアクセスがあり、拡散されて大きな反響を集め、募金が集まってくる。
  7日 車が故障した場所が幸いにもカーポートのような場所だったため、週明け月曜日に修理をしてもらうことができ、避難を再開。しかし、国境が近づくにつれ、渋滞で車がなかなか進めななくなる。
     この日、外務省より斎藤に、パスポートと同様の効力を持つ「渡航証明書」の発給が可能になったとの連絡が入る。あとは無事、ポーランド国境を越えることができさえすれば日本に帰れることになった。さらに、厚生労働省からは、英捷さんについて残留邦人の一時帰国としての対応を検討しているとの連絡が入る。
  8日 ついにポーランド国境を越える。国境のジェシュフで一旦、宿泊し、翌朝ワルシャワを目指すことにする。
 大使館からは、パスポートの有効期限が切れている2人については、同等の効力を有する「渡航証明書」を発給するとメールが入る。協会からはすぐにビザ申請のための「身元保証書」を送信。また国境を越えたという連絡を受け、ワルシャワから成田への直行便を予約。支払はとりあえず募金から。
  9日 ワルシャワに到着。修道院に設置された宿泊所に入る。ウクライナ脱出が実現したことから協会HPを更新。
  10日 4人が在ポーランド日本大使館に行き、ビザ申請書一式を提出。
  11日 4人そろって、日本行きのビザを受け取る。ポーランド航空は 毎週金曜日に成田行きがあったため、大使館に対しては最速での出国の可能性にかけて、11日のビザの発給をお願いしていたが、実際に申請からわずか1日での発給に驚き、深く感謝する。しかし、日本行きの便は16日まで運航停止であることがわかり、やむなく18日の便を予約。2人のパスポートは有効ではなく、直行便なら「渡航証明書」問題は起きないが、第三国でトランジットエリアからでた場合は渡航不能になるという忠告を受け、そのリスクが不安なため、直行便の出る18日までの1週間をワルシャワの避難所で過ごすことにする。
PCR検査の予約も日本からの支払いできるようにし、全員分の結果がインナさんのスマホに届くよう設定。
  16日 ポーランド航空ワルシャワ発成田行きのeチケットが斎藤に届き、すぐにインナさんのスマホし転送。4人はついに文字通り「日本行きのチケット」を手にする。
  17日 現地でPCR検査を受ける。朝受けて、夕方結果が出るのをはらはらしながら待つ。結果は4人とも陰性。日本への避難に対する障害はすべて取り除かれた。
  18日 ポーランド航空LO079便でワルシャワを出発。5日にジトーミルを出てから13日目。ついに日本行きへの夢がかなった。
  19日 13時過ぎ、無事、成田空港に到着し、到着ロビーで待つ兄 降簱信捷さん、妹 畠山レイ子さんと11年ぶりの再会を果たす。


2022年7月14日版

たくさんの温かいご支援、ありがとうございました。

 ウクライナ在住の樺太残留日本人 降簱英捷さんとその家族の緊急避難に際しまして、多くの皆さまからの温かいご支援をいただき、誠にありがとうございました。これまでに延べ299名の方からの募金が寄せられましたが、その中には協会とは関係のない、私たちがお名前を存じていない方もたくさんいらっしゃいました。降簱さんは「祖国である日本に逃れることができれば、きっとみんなが助けてくれる」と思って日本への逃避行を決意したといっていました。そんな降簱さんの想いに多くの方が応えてくださったことに心から感謝しております。

 すでにご案内のとおり、去る3月6日、協会では、避難したいが渡航費がないという降簱さんからの訴えを受け、すぐに募金活動を開始しました。おかげさまで渡航費用を十分まかなえるだけの資金はあっという間に集まり、降簱さんとその家族4名はポーランド経由で3月19日に無事成田に到着。翌日は妹の住む旭川に入り、11年ぶりの兄妹再会を果たすことができました。この時点では、日本政府がウクライナからの避難民を受け入れると表明していたこともあり、降簱さんたちだけでなく、私たちも「日本にさえ来られれば大丈夫」と考えていたため、避難完了後に募金活動を終了する予定でした。ところが日本政府が最初に打ち出した支援策は、日本で仕事に就くことが許される1年間の「特定活動在留資格」。つまり、入国後の生活費は自分自身あるいは受入親族・知人が自力で賄わなくてはならないというものでした。高齢の英捷さん、2歳の娘を連れた孫息子の妻と18歳の孫娘、4人とも日本語は全く話せません。受入親族である妹も、永住帰国に係る国からの給付金等で生活している状態です。そこで私たちは予定を変更し、なんらかの金銭的な支援が届くようになるまでは募金活動を継続し、彼らの生活を支えることにしたのです。

 その後、北海道から道営住宅が無償提供、家財道具の多くは旭川市社会福祉協議会から貸与され、生活基盤を築くことができました。旭川市からも備蓄食料などの寄付やさまざまな場面での支援をうけましたし、ジャガイモの配布、食器台の寄贈、Wi-Fiルーター貸与、店内利用可能なポイントを付与したカード等、道内自治体や企業からのさまざまな支援も届きました。また東川町では降簱さんと孫の2人に無償で日本語学校併設の寮に入所して日本語を学ぶ機会を与えてくださいました。さらに日本語力が十分ではない受入親族に代わって、旭川市内でロシア語教師をしている方が、さまざまなシーンでの通訳やサポートをすべてボランティアで引き受けてくださっています。こうして多くの方々の支援のおかげで、降簱さんたちは今、元気に日本での生活を送っています。

 そしてようやく7月12日、待ちに待った日本財団支援金支給の通知が届きました。金額的にはささやかではありますが、とりあえず定期的に生活支援金が届くことになりましたので、この決定をもって正式に降簱さんへの募金活動を終了することいたしました。支援経緯や内容に関しましてはあらためてご報告申し上げますが、募金の際には皆さまの住所など個人情報の提供を求めませんでしたので、個別にお礼を申し上げることはできませんでした。このHPであらためてご報告とお礼に代えさせていただきますことをご了承ください。ありがとうございました。


2022年12月1日版

降簱英捷さん、日本国籍を回復

インナさん、ジトーミルで無事女児出産!

 ご支援をお寄せくださった皆さまの中には、その後、降簱英捷さんはどうしていらっしゃるかとご心配くださっている方も多いかと思います。そこであらためて2つ、とても嬉しいご報告をお伝えします。
 英捷さんは去る11月9日、念願の日本国籍を回復しました。もともと英捷さんは長野県に残されていた父親の戸籍に次男として記載されていました。この戸籍をもとに、今回、永住予定の地である旭川市に自分自身の戸籍を作成し、それと同時にウクライナ避難民として発行されていた「外国人登録証」を入国管理局に返還。晴れて日本国籍をもつ日本人になりました。英捷さんからも皆さまに、心からのお礼の言葉が届いています。温かいご支援、本当にありがとうございました。
 さらに、日本に英捷さんを送り届けたあとすぐに第2子の妊娠がわかってウクライナに戻っていったインナさんが11月25日、無事、元気な女の子を出産したというニュースも届きました。このところウクライナの首都キーウの攻撃やインフラ破壊によるウクライナ全土の停電などが報道され、私たちも大変心配していましたが、幸いインナさんが入院していた病院は大きな被害を受けなかったということです。赤ちゃんの名前はエミリヤちゃん。エンマとかエンマチカと呼ぶそうです。2歳になったソフィアちゃんはお姉さんに、そして英捷さんのひ孫は2人になりました。
 もう一人、英捷さんとともに日本に避難してきた孫のウラジスラワさんは、東川町の日本語学校で日本語を学んでいます。8月には同じくウクライナから避難してきた同世代のマリアさんが日本語学校に入学。ルームメートもできました。各国から留学してきた同級生に混じって、切磋琢磨しながら、早くも漢字が書けるまでになりました。ウクライナに残る母や兄たちを心配しながらも毎日、イキイキと学んでいます。
 「永住帰国」という意味では、今、入居している「ウクライナ避難民用」の道営住宅から、永住帰国者としての新たな住まいに移る可能性があるので、英捷さんにとってはその新たな住居を得ることが一段落となるはずです。いずれにしても、すっかり冬らしくなった旭川で、英捷さんは間もなく初めての「日本のお正月」を迎えることになります。来年が英捷さんやウクライナのご家族、そして私たちの仲間であるロシアの方々も含めて、すべての人にとって平和でよい年になりますように、心からお祈りしています。

なお、英捷さんは今回の戸籍作成に当たって、「ふりはた」の文字を父親の戸籍と同じ「降簱」としました。
これまで協会が発信する英捷さんのお名前には「降籏」の文字を使用してきましたが、今後は「降簱英捷」と表記を変更いたします。


2023年3月20日版

降簱英捷さん、緊急避難から1年
旭川に「永住帰国」しました

 3月19日、ウクライナから緊急避難した降簱英捷さんとその家族が成田空港に到着して1年になりました。英捷さん自身も、しばらく日本に避難していれば収まると思っていたという戦火はいっこうに収まる気配がなく、ウクライナでは戦争状態が日常化しているとさえいわれています。こうした状況もあって、降簱英捷さんはきょうだいの住む北海道への永住帰国を決意し、間もなく避難民用から永住帰国者用の住まいへと引越し、文字通り新たな人生をスタートさせます。
 日本領樺太時代に生まれ、ソビエト連邦サハリンで青少年時代を過ごし、結婚後は家族でソビエト時代のウクライナに移住、その後ウクライナ国民となった英捷さんにとって、旭川は人生の晩年を過ごす第4の故郷となることでしょう。
 最近は日本での生活に慣れ、ロシア語教室の生徒さんを中心に友人も増えてきています。料理の腕前も上がってきて、来客があると美味しいウクライナ料理?を振る舞うのが楽しみのひとつになっているようです。ウクライナではダーチャ(菜園)が生活の中心だったようですが、新居の近くには小さな菜園がありますので、いろいろな野菜作りを始めるのではないでしょうか。日本語は今も独習していて、かなり上達しています。
 ウクライナの家族のことを案じながらも、この春、新たな一歩を踏み出した英捷さん。これからの人生を穏やかに健やかに暮らすことができるよう、引き続き見守っていただければ幸いです。

 この1年、英捷さんは北海道内を中心に多くのメディアに登場しました。大変困難な状況をくぐり抜けてきた方ですので、本当はできるだけそっとしておいてあげたいと思いました。しかし降簱英捷さんという方の人生を通して、樺太残留日本人のこと、そしていつの時代でも戦争は自分とは無関係なものではないということを私たちは学ぶことができます。そこで私たちは、申し訳ないと思いながらもこの1年間、たびたび取材に応じていただくようお願いしてきました。これに対し、英捷さんは、日本への避難や永住帰国に当たって多くの方から支援をいただいたことへの感謝の気持ちと平和の大切さを訴えたいという思いを、メディア通して伝えたいとして取材を受けてくださいました。皆さまにはぜひ英捷さんのこうした思いを受け止めていただきますようお願いいたします。



<関連資料>

☆画像をクリックして新聞記事をご覧頂けます。

共同通信(沖縄タイムス)2022年3月7日
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毎日新聞2022年3月16日
#

朝日新聞2022年3月21日
#
朝日新聞北海道版 2022年4月1日
#
北海道新聞 2022年8月9日,10日,11日
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☆以下の番組はYouTube配信でご覧いただけます

HBC北海道放送

①2022年3月15日放送
「ウクライナの兄が脱出を決意〝サハリン残留日本人〟2度の戦争に翻弄され…再会を待つ札幌の妹」
https://youtu.be/8M4__jQKctU

②2022年3月21日放送
「ウクライナ脱出の日本人男性 2週間かけて妹の住む北海道旭川市へ」
https://youtu.be/6v1lQ9APSxo

③2022年4月6日放送
「サハリン、そしてウクライナ…2度戦火に巻き込まれた日本人 孫とともに見つめる「平和」とは」 https://youtu.be/zhaS-ApQZBg

④2022年12月29日放送
HBC ドキュメンタリー戦後77年北海道と戦争「二度の戦争に翻弄されて~ウクライナ、サハリン、そして日本~」 
https://youtu.be/X8wnyIBqkHs

⑤2023年2月24日放送
「ロシアのウクライナ侵攻から1年 会いたい人に会える自由が失われ… 旭川市に避難した日本人男性が願う平和」
https://youtu.be/BIGgnaqDq-A&list=PLVCuZMTjoxnDU6CFwanxfNpPtoAmxvSWd

HTB 北海道テレビ

2022年9月4日放送<全国のテレビ朝日系列局で9月3~9日で放送されました>
テレメンタリー 「戦火逃れて」
https://youtu.be/UFEO-sUtBCk

SBC信越放送

2023年2月24日放送
「戦争は何もいいことない…」2度の戦争に巻き込まれて…ウクライナ、太平洋戦争に翻弄された79歳男性が問う「平和」
https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/346989?display=1


2023年7月28日版

「英捷さんが永住後初めてウクライナに里帰り
 ウラジスラワさんはウクライナの家族の元へ」


再会したジトーミルの家族とともに

去年3月にウクライナから緊急避難し、そのまま永住帰国することになった英捷さんが、6月5日から1か月間ウクライナ・ジトーミルに里帰りしました。自宅や自家用車の処分、年金等の手続きに加えて、埋葬したままになっていた息子の墓を建てることが主な目的でした。ジトーミルは比較的落ち着いた状態にあり、孫のデニスさん一家と一年ぶりに再会(2人目のひ孫エミリアちゃんとは初対面)した英捷さん。懐かしい故郷をたっぷり味わって、7月5日、もう一つの祖国である日本に元気に帰国しました。

一方、英捷さんとともに旭川市に緊急避難し、1年にわたって東川町の日本語学校寄宿舎で生活しながら日本語を学んできたウラジスラワさんは、9月の新学期からウクライナの大学に復学するため、7月31日に日本を離れることになりました。
通常の会話なら不自由ないくらいに日本語もできるようになったウラジスラワさんですが、母や兄一家が住むジトーミルや大学のあるリヴィウが比較的落ち着いた状態であること、大学には多くの友人たちが戻ってきていることなどから、休学していた芸術大学に戻ることにしました。
ウラジスラワさんから支援してくださった皆さんにお礼のメッセージが届いていますので、こちらに掲載いたします。彼女がおじいさんの祖国、あこがれの日本で、いかに多くのことを学び、成長したかがよくわかります。私たち日本サハリン協会もみなさまのご支援に心から感謝しています。ありがとうございました。


ウラジスラワさんからお礼のメッセージ

日本語 ロシア語

 今これを読んでくださっている皆さん、こんにちは!
 念願の日本訪問が叶ったのもひとえに思いやりに溢れた皆様の支援のおかげです。心より感謝しております!
 日本に来た当初、私はまるで別世界にやって来たような気がしました。日本は、お互いを尊重し合い、現代テクノロジーと古い文化が調和した国です。あらゆる食べ物を試し、色々な事に挑戦し、全ての名所を訪れたいと思いました。そして、日本の皆さんの金銭的支援と新しい友人達のおかげで、私は日本を満喫することができました!
 私は素晴らしい学校で日本語を学びました。先生方は私をサポートし、興味を伸ばしてくれました。日本人だけでなく、様々な国から来た面白い人々と知り合いました。また、日本文化についてさらに知ることが出来ました。それは私にとっていつも興味深いものでした。私はイメージチェンジをしました。長い髪を切り、ワードローブを一新し、日本の化粧品を使い始め、経験と知識を積み、私は別人になりました。それがとても嬉しいです。また、より沢山の絵を描くようになりました。実際、日本がインスピレーションを与えてくれるのか、私は常に絵を描いていました。油絵だけでなく、ペンタブレットで様々なアニメやイラストを描いていました。冬休みには、スノーボードで高い山から上手く滑れるようになりました。もちろん、何度か転びましたが、滑れるようになるまで繰り返し挑戦しました。
 そして、私はアニメとマンガの大ファンなので、秋葉原は私の大好きな場所の一つになりました!東京の夜の町並みは刺激的で、賑やかな通りを一晩中歩きたいと思いました!この国を完全に理解し、様々な場所に行き尽くすには、一生かかっても足りないでしょう。
 日本がいかに興味深い国で、ここに住む人々がいかに魅力的かについて、何時間でも話すことができます。日本人は全てに敬意と注意を払い、仕事に自分の時間を全て捧げ、そして恐らく一番重要なのが、日本人が自国の文化を忘れずに、文化を守るために出来ることを全て行い、文化と行事を大切にしていることです。他の国もこれを見習うべきだと思います。
 日本人が自分の国を愛しているのと同じくらい強く、私も故郷のウクライナを愛しています。私が生まれ育ち、今も私の家族が暮らし、そして最も親しい人々と出会った場所。
 今、ウクライナでは酷いことが起きています。戦争は終わっていません。しかし、その戦争が人々を団結させました。人々は自国を守るために命を投げ出す覚悟です。もし戦争がなければ、私と祖父は恐らく日本にやってくることはなかったでしょう。
 しかし、家からこれだけ遠くに離れているのが辛いというのも事実です。今ウクライナに残っている家族と友人達を支えたいですし、彼らのそばにいて、ウクライナ支援に人生を捧げたいです。より良い国作りを担う次世代になりたいです。それゆえ、私はウクライナへ帰ることにしました。ホームシックだけが理由ではなく、芸術アカデミーで勉学を続ける必要があるというのも事実です。9月には新年度が始まります。
 それは難しい決断でした。安全な日本に残って質の高い教育を受けるか、それとも故郷に戻るかで迷いました。
 私はウクライナ中部にあるジトーミル市で生まれ、幼少期を過ごしました。芸術アカデミー(大学)入学を機に、ウクライナの最西部に位置するリヴィウ市に移りました。現在、どちらの町も十分安全で、ミサイルが飛んでくることも稀ですが、警報はほぼ毎日鳴っています。最近、リヴィウまでミサイルが飛んできて集合住宅を直撃し、建物はほぼ破壊され、10人近くが亡くなりました。
 今ウクライナは全く安全ではなく、どこの町に住もうとも非常に大変な状況であることは分かっていますが、それすら帰国の妨げにはなりません。私は最後までウクライナにいたいのです。
 帰国日が迫っていますが、正直に言うと、とても待ち遠しいです!ポーランドに避難した友人達と遂に再会できるのです!ウクライナを離れて以来となるお祝いをしたいと思います!母と兄、兄の家族と会って、遂に彼ら全員を強く強く抱きしめることが出来ます!私は以前の生活に戻りますが、良い意味でもう以前とは全く違う自分です。
 しかし、私は日本で過ごした瞬間瞬間を生涯忘れないでしょう。思い出は永遠に私の心の中に残ります。美しい景色、田んぼ、高い山々を、そして日本の賑やかな大都市を、友人、知人達を懐かしむでしょう。もちろん、親戚達のいる日本に残る決断をした祖父のことも恋しくなるでしょう。私が自らの決断をしたように、祖父も自らの決断をしました。
 私はまた日本に帰ってくるでしょう。旅行で友人達も連れて来るかもしれません。そして再び素晴らしい日出づる国を満喫します!
 私たち家族を、そして私たちの国を支援して下さった方々、また今も支援し続けてくださっている方々、ありがとうございます!
 皆様に心より感謝申し上げます。皆様が幸せでありますように。毎日の生活を楽しんでください、人生は一度かぎり与えられるかけがえのないものです。喜びに溢れた豊かな人生をお送りください。皆様のご多幸をお祈りいたします!

フリハタ ウラジスラワ
2023年7月11日

Приветствую всех, кто сейчас читает это!
Моя самая заветная мечта посетить Японию была исполнена - в первую очередь благодаря поддержке всех неравнодушных, за что я очень сильно благодарна!
Когда я только приехала сюда - я будто попала в какой-то совершенно другой мир: Япония это страна, где люди очень уважают друг друга, страна, где современные технологии существуют в гармонии с древней культурой. Мне хотелось попробовать все развлечения и всю еду, побывать во всех знаменитых местах. И благодаря денежной помощи от всех неравнодушных японцев и моим новым друзьям, я смогла насладиться Японией в полной мере!
Я изучала японский язык в замечательной школе, где были очень хорошие учителя, поддерживающе меня и мои интересы, я познакомилась с новыми интересными людьми, не только японцами, но и людьми из других стран, и смогла больше узнать про японскую культуру, которая всегда была мне интересна. Я сменила свой имидж: отрезала свои длинные волосы, обновила гардероб, начала использовать хорошую японскую косметику и набралась опыта и мудрости, я стала другим человеком и меня это безумно радует. Я стала рисовать больше картин: Япония действительно вдохновляет, поэтому я постоянно рисовала не только масляными красками на холсте, но и рисовала на графическом планшете разнообразные аниме-рисунки и иллюстрации. Во время зимних каникул я даже научилась отлично ездить на сноуборде с высокой горы: конечно, несколько раз я падала, но я пробовала снова и снова, пока не научилась.
Так же я большая поклонница аниме и манги, поэтому район Акихабара стал одним из моих любимых мест! Ночной Токио поразил моё сердце, я была готова гулять его оживлённым улицами всю ночь! Кажется, что всей жизни не хватит, чтобы полностью изучить эту страну и побывать везде.
Я могу очень долго говорить про то, какая Япония интересная страна, и восхищаться людьми, которые живут здесь. Японцы относятся ко всему с уважением и вниманием, посвещяют своей работе всё своё время и, наверное, самое важное - японцы не забывают культуру своей страны, они делают всё возможное, чтобы сохранить её, чтят традиции и праздники. Думаю, другим странам этому стоит поучиться.
Но так же сильно, как японцы любят свою страну, так и я люблю свою родину, Украину, где я родилась и росла, где сейчас моя семья, где я встретила самых близких мне людей.
Сейчас в Украине происходят ужасные вещи, война не заканчивается, но она сплотила народ, который готов отдать жизни за то, чтобы защитить свою страну. И, если бы не война, я и мой дедушка вряд-ли бы попали в Японию.
Но факт остаётся фактом: мне тяжело быть так далеко от своего дома, я хочу поддерживать свою семью и своих близких друзей, которые сейчас остались в Украине, я хочу быть рядом с ними и посвятить свою жизнь на то, чтобы поддерживать Украину и стать тем молодым поколением, которое сделает свою страну лучше, поэтому я приняла решение вернуться в Украину. Послужило этому не только тоска по дому, но и тот факт, что мне нужно продолжить моё обучение в Академии искусств, где новый учебный год начинается уже в сентябре.
Это решение далось мне трудно: я разрывалась между тем, чтобы остаться в Японии, в безопасной стране и получить хорошее качественное образование и между своим родным домом.
Я родилась и провела своё детство в Житомире, городе, который находится в центральном районе Украины, а когда поступила в университет, Академию искусств, я переехала в город Львов, который находится на самом западе. Сейчас эти города довольно безопасны, туда редко попадают ракеты, но сирена звучит практически каждый день. Но вот недавно ракета долетела до Львова и попала в жилой многоквартирный дом, практически разрушив его и забрав жизни около 10 людей.
Я знаю, что сейчас в Украине совсем не безопасно и очень тяжело, в каком городе бы ты не жил, но даже это не останавливает меня от возвращения. Я хочу быть в Украине до самого конца.
День моего отъезда уже совсем близко, но, буду откровенной, я его очень жду! Я наконец-то увижу своих близких друзей в Польше, которые бежали от войны, а после в Украине, устрою с ними настоящий праздник! Я увижу свою маму, брата и его семью, наконец-то я смогу их всех очень-очень сильно обнять! Я вернусь к своей прежней жизни, но буду уже совсем другой, лучшей версией себя.
Но я всю жизнь буду помнить про каждый момент, проведённый в Японии, эти воспоминания останутся в моём серце навсегда: я буду скучать по живописным видам, рисовым полям, высоким горам, буду скучать по оживлённым большим японским городам, своим друзьям и знакомым, и, конечно, я буду скучать по своему дедушке, который решил остаться в Японии рядом со своими родными. Он принял своё решение, как и я приняла своё.
Я знаю, что вернусь ещё сюда, в Японию, устрою путешествие и может даже привезу сюда друзей и вновь наслажусь потрясающей страной восходящего солнца!
Спасибо всем, кто так или иначе поддерживал и продолжает поддерживать нас: нашу семью или даже нашу страну!
Низко кланяюсь перед вами и благодарю от всей души. Будьте счастливы и наслаждайтесь каждым днём вашей жизни, ведь жизнь это бесценная вещь, которая даётся лишь раз. Проведите её в радости, благополучии и будьте счастливы!

Фурихата Владислава
11 июля 2023 г.



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