NPO法人日本サハリン協会

| 樺太時代(1905年)〜現在まで |
樺太時代(1905年-1945年)
北海道の最北端、宗谷岬の北、約43キロに位置する島、樺太・サハリン。
江戸時代、幕府直轄領として蝦夷地と呼ばれていたこの島は、1855年(安政元年)にロシアと交わした日露和親条約の時点では日露両国民混在の土地とされていた。しかし1875年の千島樺太交換条約で、明治政府が樺太を放棄したため、いったんは全島がロシア領となる。その後、日露戦争で戦勝国となった日本が、1905年のポーツマス条約により北緯50度以南を再び領有することになり、以後、第二次世界大戦敗戦までの約40年間、日本による樺太各地の開拓が進められた。

豊原市(現ユジノサハリンスク市)を中心に、王子製紙工場の巨大な煙突をシンボルにしたパルプ業や炭鉱業、水産業などが発展し、それとともに島内各地では京都のような美しい碁盤状の街並みが形成されていった。1945年の終戦当時の人口は40万人ほどだったとされる。


日露国境線上より見たロシア領風景(樺太には「陸上」に国境線があった)


太平洋戦争末期(1945年8月)

第二次世界大戦末期、樺太では、ソビエト連邦が日ソ国境線であった北緯50度線に侵攻。日本本土が終戦を迎えた8月15日以降も各地で激しい地上戦が続き、多くの一般市民が戦闘に巻き込まれた。1945年8月末には樺太全島がソビエト連邦の支配下となり、以来、現在に至るまでロシアが事実上の統治国となっている。


終戦後、本土への引き揚げと残留邦人
終戦後、ソビエト連邦領サハリンとなった樺太からの邦人の引き揚げは1959年まで行われたが、一方で、様々な理由によりこの地に残らざるを得なくなった多くの日本人や韓国朝鮮人の存在があった。日系一世の場合、その多くは女性(特に長女)であった。彼女たちは、終戦前、家族を養うためにやむなくロシア人や韓国朝鮮人と結婚したり、強制的に結婚させられたりした結果、幼い子どもを抱え、引き揚げの時期を逃してしまっていた。その後も引き揚げの機会はあったのだが、子どもを残して自分だけ帰ることができなかったり、韓国朝鮮人の夫が日本への引き揚げに同意しなかった、あるいは引き揚げ後の差別や、生活への不安を抱いてサハリンに残ってしまったという人も多かった。また残留邦人には男性も少なくなかったが、こちらはインフラ維持のためにソ連が帰国を許さなかった技術者が多かった。





樺太時代に敷設された鉄道線路(パルプ産業が盛んだった)


樺太各地に製紙工場があり基幹産業の一つだった(左:1925年の樺太写真帖より・右:2009年撮影)



朝鮮半島出身者
一方、日本人が次々と引き揚げるなか、終戦時4万人ほどいたとされる韓国朝鮮人の多くは、そのままサハリンに残されることになった。1946年12月、米ソ間に交わされた“ソ連地区引揚げ米ソ協定”で、引き揚げ者の対象が、①日本人捕虜、②一般日本人、③北朝鮮へ引き揚げを希望する在日韓国朝鮮人のうち、北緯38度以北に居住し且つ同地域で出生したもの、と限定されたが、サハリンの韓国朝鮮人の多くが38度以南(韓国)出身者であり、且つ、終戦後、日本国籍を外されたために、引き揚げ対象とならずに放置されてしまったのだった。
1923年11月発行 樺太発展営業写真案内より。街の様子



稚内港にて 1991年5月



ソ連時代から現在

ソ連支配下となったサハリンで、残留邦人、残留韓国朝鮮人は、炭鉱や農場、左官や商店の販売員など、様々な職に就きながらも家庭を築き、生き続けてきた。北海道最北端、宗谷岬とは肉眼でも確認出来るほどの距離にありながら、”鉄のカーテン”に阻まれ、長い間日本へ入国することが出来ずにいた。「樺太(サハリン)同胞一時帰国促進の会」の活動により始められた里帰り・一時帰国事業で、再び日本の土を踏み、離散した親兄弟や肉親と会うことができたのは、戦後45年もたってからのことだった。

この地には、いまも多くの日系、韓国朝鮮系の人びと、及びその子孫が住んでいる。彼らは、戦後に大陸などから移り住んできたロシア系住民や戦前からサハリンに住んでいた先住民族などと共に、民族的に非常に複雑な、しかしある意味で個性的な社会を形成している。

ユジノサハリンスクに暮らす日系、朝鮮系の人々



かつての豊原(樺太写真帖より)



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