ソ連支配下となったサハリンで、残留邦人、残留韓国朝鮮人は、炭鉱や農場、左官や商店の販売員など、様々な職に就きながらも家庭を築き、生き続けてきた。北海道最北端、宗谷岬とは肉眼でも確認出来るほどの距離にありながら、”鉄のカーテン”に阻まれ、長い間日本へ入国することが出来ずにいた。「樺太(サハリン)同胞一時帰国促進の会」の活動により始められた里帰り・一時帰国事業で、再び日本の土を踏み、離散した親兄弟や肉親と会うことができたのは、戦後45年もたってからのことだった。
この地には、いまも多くの日系、韓国朝鮮系の人びと、及びその子孫が住んでいる。彼らは、戦後に大陸などから移り住んできたロシア系住民や戦前からサハリンに住んでいた先住民族などと共に、民族的に非常に複雑な、しかしある意味で個性的な社会を形成している。 |